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音楽室のベートーヴェン氏

 放課後を告げるチャイムが余韻を消すのを待って、ゆっくりとピアノの音が流れ出した。ひっそりとひとつだけ開かれた最後方の窓から、柔らかなメロディーが校庭へと流れ出していくのを見送って、彼はやれやれと小さく呟いた。
ここ第二音楽室―――通称二音―――は、彼のお気に入りの場所だ。部室棟の三階に増設されて築五年というだけあってまだまだ新しい匂いのする建物は、きれいで清潔だ。防音も完璧で窓さえ閉めていれば外の騒音は入ってこないし、何かあればすぐ教室棟に行ける連絡階段が近いのもいい。そしてなにより、この部屋は利用者が少ないのだ。
もともとが音の道を志す生徒の為という名目で作られ、開放されている二音だが、ごく普通の公立校で実際に音楽を志す生徒は少ない。ましてや増設時に一音から「七不思議」の音楽家の絵が運び込まれたと聞けば、よほどに切迫した状況かかなりの物好きでない限りそうそうは近寄らないものだ。
前に愛用していた一音には、同じようにそこを密かな居場所と定めた顔なじみが多く、古い建築物特有のしっとりした深みがあるのも悪くはなかったけれど、なんと言っても利用者が多かった。授業は立て続けに入るし、放課後は放課後で日替わりで音楽部やらバンド部やらコーラス部やらが使っているので、なかなかさぼりにくいのである。その点二音は、授業で使うことこそあるが、放課後になればほとんど人が訪れることはない。あまり人と関わるのを好まない彼にしてみれば、これほどの安住の地はなかった。
「おまえ、仮にも学校と言う社会ってやつで、その人嫌いを表に出すのはまずいんじゃないの。」
先日は噂を増長させるような細工をしているところを、ついに友人に目撃されてし まい、呆れられたような気がする。
「学校にいるものが全て社会適応者なわけがない。そういう言われかたは不本意だ。」
「まあ、いいけどさ。」
しかし強固な反対も受けなかったため、彼はその後も細工を続け、安息は保たれていたのである。




 つぎつぎと外へ流れ出ていく音符は、二階辺りでふわふわと浮き沈みを繰り返している。その辺りは風の流れが滞るのか、昨日もメロディーはそこで足踏みをしていた。防音の施された音楽室内での弾けるような動きとは異なる歩みを見るともなしに目で追っているうちに、四小節ほどが過ぎていった。
ゆっくりと紡がれる和風の主旋律には聞き覚えがある。二ヵ月後に迫ってきた合唱コンクールの自由曲として、一年三組が熱心に練習していた曲目だ。七日前から突然に二音に通いつめだした少女は、そういえばそのクラスの一員だったなとふいに彼は思い出した。
コーラスを響かせる為のひかえめなメロディーラインは、心地良いやわらかさで耳をくすぐる。彼とて別段、誰も彼もが苦手と言うわけではない。人数が少なく、あまり大騒ぎをせず、こんな曲を奏でるような奏者ならば、つまるところこの少女のような人物ならば、むしろ歓迎しても構わないと思う。
「・・・・・・。」
ただそれとて他の騒音を持ち込まなければの話だと、彼は今日も小さなため息をついた。
そろそろ二番に差し掛かろうかという旋律には、奇妙な吐息が混ざりはじめていた。
吐息は、メロディーの大元辺りから聞こえてくる。奏者の表情に別段目立った変化はない。だがピアノの呼吸音が人に聞こえるはずもなく、その小さな音は、少女の唇から洩れているのだった。
「・・・・・・っく・・・。」
室内にいなければ聞き取れないほどのため息は、どこか泣き声に似ている。本来ならば美しいはずの旋律をゆがめる雑音は、ひどく気持ちを揺さぶった。
内心舌打ちし、彼は思いきり眉をしかめた。もともとあまりない忍耐力も底を尽き、今日こそ一言言ってやろうかと、勢い良く身を起こす。
自分しかいないはずの室内で急に響いたがたんという物音に驚いたのか、少女が振り向いた。そこに突然現れた人の姿を認めて、両の瞳に宿る驚きの色が深くなる。
とは言え、少年は急に現れたわけではもちろんなかった。簡易ベッド代わりに並べた椅子から、身を起こしただけだ。ピアノは黒板の横、つまり教室の最前列にあり、少年が休んでいたのは最後方の机だった為、単に少女が気づかなかっただけである。
「・・・あのさ。」
奏者の手は既に止まっており同時に雑音も止んでいた。勢いづいて声を掛けたものの、泣き声がうるさいなどと暴言を吐くわけにもいかず、少年は言い淀む。
だが一週間というもの耳障りな音を聞き続けた彼の心境はそう簡単に安らぐものではない。気持ちを落ち着かせようとゆっくりと立ち上がったが、慣れない動作は逆効果で、またがたりと大きな音が静かな音楽室に響いた。
「なに。」
顔なじみとは言え、不機嫌そうに椅子を蹴倒して近付いてくる少年を警戒したのか、表情は平静のまま少女はわずかにピアノに身を寄せた。
その仕草に、先刻思わずといった感で吐息を落としたときも彼女が落ち着いた表情をしていたことを思い出す。不可解な苛立ちが彼の胸を過ぎった。
「・・・・・・泣いてるの。」
そのせいもあるのか、つい問いかける少年の口調もぶっきらぼうになる。
「?泣いてないよ?」
少女は平然と、簡素に応える。その口調には、これといった無理はうかがえない。
「でも今。」
「泣いてないよ。」
それでも気が治まらず、少年は再度言葉を紡いだ。その答えもまた、随分と明快である。
「っていうか、どんな噂聞いたのさ?」
逆に笑いながら問いかけられて少年は言葉に詰まった。当然だろう。ここ数日彼が良く耳にするこの顔なじみの少女に関する噂は、決してよいものばかりではなかったのだ。
そんな友人を横目で見ながら、少女は再びピアノに指を滑らせた。淀みなく動く指先から、美しい旋律が流れ出していく。今度は奇妙な吐息が混ざることもなく、ただ滑らかに曲が奏でられた。
雑音は混じっていなかったと言うのになぜか苛立ち、両目を伏せた奏者の横顔を見つめて、やるせない思いで彼はまたひとつため息を落とした。
もともと気の強いことや潔白すぎる感覚が他人と馴染みにくく、学年内でも浮きがちの少女だ。今回も些細なきっかけでここに通いつめる羽目になったのだと、すっか り広がった噂でようやく昨日知った。
もちろん、話が悪い方向だけに広がっていたわけではない。少女のそういった潔癖さを好む声も確かに聞かれたし、元々がくだらない内容なだけに、深刻な事態に陥っていく心配も、彼はそれほどはしていなかった。それでも、ため息はついつい洩れてしまうのだ。
「本当に泣いてないよ。というか泣くような話じゃないしね。ついつい笑っちゃうだけだよ。」
一曲を弾ききり、言葉が不足していると感じたのか、少女は少しだけ話を継ぎ足した。
「だって可笑しいと思わないか?あんまり子供じみた噂でさ。ベートーヴェン氏の肖像画が笑ったら、そのクラスのコンクールは失敗だなんてのも。」
集団心理っておかしいよな。言葉を途中でとぎらせて軽く笑い、奏者はまた鍵盤に指を滑らせた。すっかり耳に馴染んだ和風の旋律がまた、ゆるやかに流れては防音の施された床の上で弾む。
このくすぶるような思いは何に由来するのだろう。今はきりりと前を見つめる少女の横顔を見遣り、彼は考える。自分の流したささやかな噂が他人を傷つけたからだろうか。
少女が言うところの「笑うベートーヴェン」の話も、流れてはきていた。以前より七不思議のひとつとされてきたその噂を、人の寄り付かない安息の地を得るために、再び燈す細工をしたのは確かに彼だ。
ただいくつかの偶然要素がそれを巻き込み、ひとりの気弱なクラスメートを責める雰囲気が一年三組で出来上がったことは、まさに集団心理というより他にない。だから彼の苛立ちは、噂にあるのではないと思う。
「だからってっ!!」
少女が発しなかった話の続きを思い、少年は内心の苛立ちを抑えきれずに、乱暴に最前列の机に腰掛けた。
「だって。」
それをやんわりと遮り、少女は視線を彼に向けた。
「ベートーヴェン氏も気の毒じゃないか。笑いたい時だってあるだろうに、七不思議のせいでいつもしかめつらしてなきゃならないなんてさ。開校当初から見守ってくれてるのに。だろ?」
そのまっすぐな視線は少女の指先から流れ出すメロディと同じようによどみない。
受け止めきれずに目を逸らし、彼は暮れていく窓の外を見つめた。
確かめてみようと、言い出したのは少女自身であったと言う。俯く級友の横に立ち、自分がやると言いきることで、奇妙な空気を断ち切ったのだと、噂で聞いた。
「・・・・・・そういう問題か。怖がりの癖に。」
惑った挙句、少年は、小さな愚痴をひとつだけ、口に載せた。
言えることは、他に何もない。だからって君がやることないだろうとか、二階の部室にいるのを知ってるんだから声を掛けろとか、言いたいことはたくさんあるのだけれど、それはこの誇り高い友人には必要のない言葉かもしれなかった。
「そういう問題さ。」
泰然と笑う少女を見遣り、少年はため息を落とした。
締め切った部屋の中で落とされる悲鳴のような吐息が誰にも届かないとしても、それは少女が選んだことなのだから、自分に左右できる問題ではない。それでも、噂を耳にし、今は耳に馴染んだ旋律が洩れ聞こえてきた昨日まで、何も気づけなかったことが悔しい。
わかっている。彼は繰り返し小さな吐息を落とす。この苛立ちは身勝手な心配からくるものなのだ。
「それに、別に怖くなかったよ。結局彼は笑ってくれないしね。」
しかし冷静に分析してみたところで、そうそう気持ちがおさまるものでもない。少女の軽快な言葉にまた、気持ちが焦げつく。
暮れてゆく窓から差し込む夕日の切ない色から目を逸らし、内心のくすぶる思いを吐き出そうと、少年はゆっくりとメロディーラインを口ずさんだ。聞きなれてはいても他クラスの曲だ。すぐに上手に歌うのはなかなかに難しく、重ねたつもりの音がそれる。少しでも和音に近づけようと音を修正し・・・さらに歌は主旋律から外れた。
もはや合わせる気もなくなり、やけのような気分で少年は次々に不協和音を繰り出した。
その微妙な旋律に耐え切れなかったのか、曲半ばで奏者の手が止まった。
「・・・すっごいんですけど、音。」
「良いだろ、別に。音痴なんだ!」
何もかもが思うがままにいかない感触に苛立ちを募らせ、少年は自分でも幼いとわかっていながら駄々をこねるような言葉を落とす。
「そこまでじゃないけども。」
それを母親のようなやわらかな声音でフォローされ、一転して、情けない表情が少年の面に上った。
「まあ、でも音痴なほうかもね。」
けれどその頃には、少女の視線は鍵盤の上に戻っていた。どこか呆れ果てたような言葉には、親しい友人だけに向けられるくだけた音色が混じっている。
内心の苛立ちをわずかに収め、少年もまた、やさしいメロディーに耳を傾けた。音の流れを口ずさむかわりに己の思考を追い、やがてひとつの名案を思いついた少年の口元に、小さな笑みが浮かんだ。
「終わりに、しようかな。」
練習を終えたのか柔らかな布で鍵盤を拭い始めた少女は、まだ少年の心境の変化に気づいていないようだ。その作業を手伝いながら、どう言えばこの頑固で誇り高い友人の反論を封じられるかを考える。
「帰ろっか。」
「うん。ところでさ。」
問いかけてくる少女に頷きを返し、少年はさりげなさを装って話を切り出した。
「おれコンクールまでにこの音痴治したいんだけど名案ない?」
「音痴ってほどじゃないって。音感のある人に練習付き合ってもらうのがいいと思うよ。」
友人よりは音に慣れている分、少女の応えは打てば響くような速さで戻った。
「やっぱそうか。じゃあ。」
おもむろに言葉を切り、少年は扉を引いた。指し示されるままに廊下に出る少女のあとを追うように、二音の電気が落ちる。
「歌い方のコツとかちょっと教えてくれないかな?人に聞かれると恥ずかしいし、そっちのクラスの練習邪魔してもなんだから、きみが二音で単独練習する日だけでいいんだけど。」
閉まりかけた扉のむこうで、お人よしと呟く少女の声が人気のない廊下に響き、それに何かを答える少年の声が続き・・・・・・、やがて喧騒は遠ざかっていった。




 「で、その子たちはもう来なくなっちゃったんか?」
ひさびさに二音に立ち寄った友人は、ねぐらである理科室で沸かしてきたというビーカー茶を彼に勧めながら、どこか残念そうに尋ねた。
「級友と和解はしたらしいが、練習に来ることもある。・・・なぜ嬉しそうなんだ。」
「いや、おまえの人嫌いを治したって子にぜひともお目にかかってみたいと思って。」
「別に変わってはいない。」
微妙な味のお茶をこっそりと脇によけながら、彼は眉をしかめて応えた。長年培ってきた習慣がそうそう変わるはずがないし、変わるつもりもない。誰かの影響で変わったなどと言われるのは、彼の最も不本意とするところだ。
「え、じゃあまだ怒ったようなカオして、他の子脅かしたりしてんの?こーんな風に眉しかめて?マジかよー。」
頷いた彼に、友人はがっくりと肩を落とし、次いで手で目元を覆った。白い腕と目の周りの骨がぶつかってかたりと音がする。どうにもついていけないオーバーリアクションぶりに、さりげなく視線をずらし、彼は窓に目を向けた。
次第に暮れていく外の風景の中に、たくさんの生徒の影が映っている。そろそろ下校時刻なのだろう。ぎりぎりまで残っていた生徒たちが、三々五々散っていく。
その中に数日ですっかり見慣れた影を探し、彼はわずかに身を乗り出した。がたりと小さな音が、静まり返った室内に響く。求める姿は、すぐに目に止まった。
細長く伸びた影は、周囲の影と交わり離れることを繰りかえしながら、遠ざかっていく。その手前を歩く少女の周りにも、多くの生徒の姿があった。
「でもその子にはやさしくしたんだろ。」
「していない。ただ泣き声が部屋にこもると苛々するから、窓を開けただけだ。」
 影は次第にひとつになり、闇に紛れて見えなくなった。校門が閉められるのを見送って振り向くと、いつの間にやら隣に来ていた友人が楽しそうに彼を見つめている。
「なにをカタカタ笑っている。気持ち悪い。」
「やっぱおまえ変わったよ。」
「だから。」
「そういうことを言われるのは不本意だ、ってんだろ。」
知ってるけどさ。やわらかい表情を白い面に載せながら、友人は微笑む。いつもながら、友人の表情は驚くほどに豊かだ。
「けどおまえ、いま目茶目茶やさしー顔して笑ってたよ。」
「・・・・・・私とて笑うことくらいある。」
そしてこちらもいつもながら不機嫌そうに、彼は答えた。
「いーや、今のはそういうレベルじゃなかったね。すっごいお人よしに見えたぞ。完全に『笑うベートーヴェン』になってた。」
「そういうことを言われるのは不本意だ。」
どうにも解釈の暴走している友人に付き合いきれず、彼は再び視線を外に向けた。
もうどこにも生徒の姿は見えない。一日の仕事を終えた校舎から立ちのぼる安堵の吐息は、月明かりに照らされる校庭の上で遊んでいる。少女の奏でる音符もこんな風に弾んでいたな、などと思い、らしくもなく、彼は小さく微笑んだ。
合唱コンクールは三日後に迫っている。七不思議が事実かどうかはそのときがくれば誰にでもわかるだろうが、無論そのささやかな噂が真実でないことを、彼は知っているのだった。

The present got from Kazusanosuke.

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